作曲者のシューマン (Robert Alexander Schumann) は、1810年6月8日にドイツ東部ツヴィッカウ (Zwickau) で生まれた、ドイツの作曲家である(没1856年7月29日)。当初はピアニストを目指したが、指の故障により夢をあきらめて作曲に専念する一方、音楽評論家としても活動した。この間にピアノを師事したヴィーク (Friedrich Wieck) の娘が、のちに妻となるクララ (Clara Josephine Wieck:1819-1896) である。
さて、シューマンの作曲活動は、初期は「トロイメライ」で有名な『子供の情景』などピアノ曲のみの創作であったが、クララとの恋愛により歌曲への関心が生まれた。そして、クララと結婚した1840年には『詩人の恋』『リーダークライス』『ミルテの花』といった連作歌曲集など、この年だけで100曲以上の歌曲を作曲した。そのため、シューマンにとっての1840年は「歌曲の年」とも呼ばれている。
しかし、翌年になると一転して2曲の交響曲を書いた。そのため、1841年は「交響曲の年」と呼ばれている。そのうちの1曲が本日演奏する交響曲の初稿版『春の交響曲 (Frühlingssinfonie)』である。ちなみに、他方の交響曲はニ短調で、出版がかなり遅れたために「第4番」として認知されているものである。
当時まだ管楽器についての知識が十分でなかったシューマンは、メンデルスゾーン (Felix Mendelssohn:1809-1847) の助言により冒頭のファンファーレの音程を変更するなどして、1841年3月31日、メンデルスゾーンの指揮によりライプチヒ・ゲバントハウスで初演が行われた。
出版の際にシューマン本人によって削除されたが、初演時には各楽章に次のような副題が付いていた。
第1楽章 春のはじまり (Frühlingsbeginn)
第2楽章 宵 (Abend)
第3楽章 うれしい戯れ (Frohe Gespielen)
第4楽章 春爛漫 (Voller Frühling)
クララの父親からの壮絶な反対を押し切って、やっと結婚できたシューマンのまさに「春うらら」の交響曲なのである。
第1楽章「春」を表現するファンファーレで曲が始まる。ライプツィヒの詩人アドルフ・ベトガー Adolf Bottger(1815-1870) の詩に拠ったものと言われている。
O wende, wende deinen Lauf,
Im Tale bluht der Fruhling auf!
(さぁ、君の歩いていく方向を変えろ、
渓谷ではもう春が咲いている!)
続く序奏は、冬から春への景色の変化を表現している(※あくまで筆者の個人的な感想です)。まず、冬の暗い景色を描写する。その後、フルートの下降音階によって暖かい日差しが降り注いでくる様子を表現すると、弦楽器(2ndヴァイオリン及びヴィオラ)の3連符で雪解けを模写する。テンポをだんだん速く(雪解けが加速)することで、春が近づいてくることを表現すると、曲は提示部に入る。
第1主題のモチーフは、冒頭の「春のファンファーレ」に基づいている。8小節のフレーズを2回提示したのち、その前半部分の4小節フレーズを2回、続いてそのまた前半部分の2小節フレーズを2回、さらにはその前半の1小節フレーズを2回と、フレーズ自体を縮小していくことで、春の訪れへの喜びと気持ちの高揚を表現している。木管楽器で奏でられる第2主題のモチーフは、春風のような優しいメロディーとなっている。
第2楽章流麗なメロディーが主体の第2楽章である。さながら、おぼろ月を眺めながら、暖かくなってきた夕暮れのひとときを楽しんでいる様子だろうか。トロンボーンとファゴットによる第3楽章の主題の暗示のあと、切れ目なく、第3楽章に移行する。
第3楽章主部・第1トリオ・主部・第2トリオ・主部・終結部で構成されている、2つのトリオを持つ楽章である。主部のテーマは前半が男性的、後半が女性的となっている。トリオはいずれも、その男性と女性が舞踏を楽しんでいるイメージであり、終結部はその嬉しい戯れを回想しているようだ。
第4楽章冒頭から喜びがあふれる情景である。春の明るい日差しと咲きほこる花に心が躍動する、そのような印象の楽章である。
宮沢賢治は、彼の代表的な著作『セロ弾きのゴーシュ』において、三毛猫がやって来てリクエストする「トロイメライ」のその作曲者のことを「ロマチック・シューマン」と称している。まさに、シューマンの音楽はどれも、詩的で幻想的なのである。