DIE KOKUBUNJI PHILHARMONIKER
 ■ 国分寺フィル演奏会演奏会記録(1996年〜2000年)第15回定期演奏会

ワーグナー:歌劇「リェンツィ、最後の護民官」序曲

19世紀に活躍したロマン派の作曲家のなかでワーグナーは最も特異な人物であった。その波瀾に満ちた生涯…借金の返済から逃げ回ったり、政治活動に加わったとして亡命したりなどした。また大指揮者ビューローの妻で、リストの娘でもあったコジマを奪ってしまったのは有名な話である…もさることながら、オペラという総合芸術を己の持つ美学において比類なき高みに登らしめた、という事実において。

この作品は1838年頃、ワーグナー25歳の時に作曲を開始。台本はブルワーの小説とミッドフォードの劇をもとにワーグナーによって作曲と同時に制作、その年のうちに完成をみる。ところが翌年、指揮者を務めていたリガ(バルト海に面した辺境の街)の劇場を解任され、多額の借金を抱えて首がまわらなくなっていたワーグナーは海路リガから夜逃げし、途中「(後年作曲することになる)歌劇『さまよえるオランダ人』の詩的・音楽的構想に影響を与えた」という大嵐に遭遇した後、ロンドンを経由しパリへ入る。だが当時のパリ・オペラ座が無名のワーグナーの作品を上演してくれるわけがなかった。生活も貧乏のどん底で、エサもろくにくれない主人を見限って飼い犬まで逃げ出す有り様。そんな夢も希望もないパリ時代に作曲が完了。結局初演は1842年に再三上演要請を打診していたドレスデンの宮廷劇場で行われて大成功を収め、さらに偶然空席になていた宮廷劇場指揮者のポストまで手に入れることができた。だが、この後1849年のドレスデン革命に参加した疑いをかけられ、お尋ね者となってまた逃亡生活を余儀なくされるのである。

「リェンツィ」物語のあらすじは、14世紀に実在したローマ教皇の公証人・リェンツィが民衆の支持を得て革命を起こし護民官の地位に就くが、それをよく思わない貴族達の罠にはまり、民衆にも裏切られて滅び去る…というもの。典型的悲劇モノである。初演時は大変好評だったこのオペラの序曲が演奏会の曲目に挙がること自体、最近ではあまりない。ましてや全曲の上演は世界的にもまれである(上演時間の長さもさることながら、ワーグナーが自分の作品を上演するためにバイロイト祝祭劇場をつくったさいに、この若書きの作品の上演を禁じてしまったことも要因のひとつであるかもしれない)。ほかの巨大でポピュラー(??)な作品…「ニーベルングの指環」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「パルジファル」などなど…と比べるとやはり地味という印象は拭いきれない。

曲はまずリェンツィが民衆に革命を呼びかける、トランペットによる「解放の動機」に始まる。やがて敬虔な雰囲気に満ちた「祈りの動機」、決然とした「意志の動機」、民衆を率いる「行進の動機」という風に劇中に使われる様々な動機が展開され、最後はリェンツィの勝利の行進によって力強い終結を迎える。

モーツァルト:クラリネット協奏曲イ長調K.622

かつてシュターミッツ兄弟らマインハイム楽派のすぐれた音楽家たちとの邂逅によって、クラリネットという新しい楽器を知り、さらにその音色に強く惹かれたモーツァルトは以来クラリネットを用いた作品をいくつか書いているが、この楽器自体はまだまだ開発途上で音色も不安定になりやすかったので、合奏作品ではもっぱらバセット・ホルンという1枚リードの中低音楽器で代用された。モーツァルトも大規模な器楽合奏のオーケストラ作品では交響曲(第31番)ニ長調「パリ」と交響曲(第35番)ニ長調「ハフナー」くらいにしか使用していない。優れた奏者がいなかったということ、それ以上にこのクラリネットという楽器がザルツブルクやウィーンでは普及していなかったことも理由のひとつであると考えられる。

その短い生涯のうちに多くの作品を残したモーツァルト。唯一のクラリネットのための協奏曲は最後の年、1791年の10月頃、その前月に歌劇「皇帝ティトゥスの慈悲」の完成とプラハ初演、続いて「魔笛」を完成させウィーンで初演、と大仕事が続いたあとに書かれたものである。このあとには、オペラを除く大作としては「レクイエム ニ短調K.626」しかない(しかも未完に終わっている)。そして12月5日には亡くなっているので、まさに「白鳥の歌」と呼ぶべき作品。

協奏曲というジャンルにおいても彼の最後の作品となったこの曲は、当時交流のあったクラリネットの名手アントン・シュタートラーのために書かれたとされている(彼のためにもう1曲の名作、「クラリネット五重奏曲」も書いた)が、特定の演奏会のために作曲されたというものではないらしく、初演の記録もない。晩年のモーツァルトの経済状態からしてわざわざ音楽家を雇うカネはなかったであろうから、彼の存命中に公開の演奏会がもたれたという可能性はきわめて薄い。父レオポルドへの手紙でも、モーツァルトはそのことについてぼやいている。だが、才児シュタートラーによってクラリネットはキーを増やすなどの改良がなされ、急速に認知度を増していったのである。

シベリウス:交響曲第2番ニ長調 作品43

森と湖の国・フィンランド。シベリウスはこの国が生んだ世界的作曲家である。その生涯に7つの交響曲を書いたことでも知られ、また劇音楽や室内楽、器楽、合唱曲などで多くの作品を残した。帝政ロシア支配下のフィンランド国民の愛国心を高揚させた「フィンランディア」はあまりにも有名である(フィンランドでは第2の国歌とされるほど愛聴されている。言うなればアメリカのスーザ作曲「星条旗よ永遠なれ」と同じくらいポピュラーな存在)。

「交響曲第1番」(1899年)の2年後、家族とともに長期滞在したイタリアの保養地でこの「第2番」は着手された。徐々に作曲を進めたが、途中家族を放りだしてローマやミラノでオペラを観たりしていた(シベリウスは音楽的感化を得た、と言っているのでまるっきり作曲をサボっていた、というわけではないようだが…)。構想が固まり、本格的に書き始めたのはフィンランドに戻ってからである。1902年春に完成し、同年3月8日にシベリウス自身の指揮でヘルシンキにおいて初演され、非常な成功を収めた。チャイコフスキーのような叙情性や、独墺の後期ロマン派の影響が垣間見られた前作と比べ、シンプルながら格段に充実した筆致で書かれている。曲は、イタリア旅行のために資金を捻出してくれた友人、カルペラン男爵に献呈された(実は男爵はあまり金持ちではなかったので、旅行の費用を家人たちにマタ借りをしてかき集めたというあまり笑えないウラ話もある)。

シベリウスの作品を評価し、生涯にわたってその紹介につとめた同郷の指揮者、ロベルト・カヤヌスは「この曲の集結は、帝政ロシアの圧制下にあるフィンランド国民の熱烈な祖国愛精神の表現である」と語ったが、シベリウス本人はカヤヌスの指摘を否定したと言われる。そもそもシンフォニーとは、明快なテーマを持つ標題音楽(「フィンランディア」はまさにそうであった)と違い、作曲家の個人的独白であることが多い(作品の持つ真実の意味を知るのは勿論作曲者本人ただひとりであるが)。そこへあかの他人のイデオロギーなどが介在する余地があろうはずがない。だが、この「交響曲第2番」初演後も完全な独立まで紆余曲折の道のりを辿ったフィンランドの人々の多くはカヤヌスと同じことをこの作品に感じ、求めたのかもしれない(私個人はむしろ大自然を想起させる音楽として捉えている)。いずれにせよ、現代の私たちが聴いてもこの音楽の圧倒的な力強さにはもはや言葉を持たない。

解説:藤本 崇
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