DIE KOKUBUNJI PHILHARMONIKER
 ■ 国分寺フィル演奏会演奏会記録(1996年〜2000年)第18回定期演奏会

ボロディン 歌劇「イーゴリ公」より だったん人の踊り

過酷な帝政末期のロシア、ソヴィエト連邦の実態を告発した『ショスタコーヴィチの証言』(ソロモン・ヴォルコフ緒、水野忠夫・訳、中公文庫刊)の中でボロディンに関する記述が出てくる(※ロシア語の発音により近い「ボロジン」と表記されている)。リムスキー=コルサコフがボロディンの自宅を訪問し、彼に向かって尋ねる。「何か(新しい作品を)書きましたか?」ボロディンが答える。「ええ、書きましたとも。」しかしそれは、女性の権利を擁護するための手紙であった・・・なんて小噺じみたオチのような本当の話。ベテルブルグ医科大学で教授を務めていた科学者であり、また熱心なフェミニストでもあったボロディンは手間のかかるオーケストラ作品をほとんど書きかけたままにしていた。「ロシア5人組」の一人として知られた彼にとって作曲という行為は生活のごく一部に過ぎなかった。言ってみれば「日曜作曲家」だったのである。

オペラ「イーゴリ公」はプロローグと4幕5場から成る。中世の叙事詩「イーゴリ遠征譚」と「イパチェフスキー年代記」を元にボロディン自身が台本を製作。12世紀、キエフ公国分裂の頃、だったん人の侵略をくい止めようとして捕虜になったイーゴリ公が脱走し、祖国を守るために戦うという愛国物語である。1869年頃から作曲を始めたが、前述のような理由で中断したりしてなかなか筆は進まず、18年もかけたのに結局は未完のまま1887年に亡くなってしまう。第3、第4幕はスケッチのみが残されたためリムスキー=コルサコフとグラズノフにより完成された。

もっとも有名な「だったん人の踊り」は第2幕に登場する。ちなみに、「だったん」とは、中国でのタタール人の呼び名であるが、ヨーロッパにおいてはモンゴルから中央アジアにかけての広範囲で生活をする遊牧民族の総称である。

リムスキー=コルサコフ スペイン奇想曲 作品34

ボロディンと同じ「ロシア5人組」のメンバーだったリムスキー=コルサコフも、はじめは職業作曲家ではなく、軍人であった。異国への憧れを強く抱いていたかれは海軍で軍艦に乗り込み、各地で見聞を広めるかたわら作曲もおこない、1872年からペテルブルク音楽院で訓え始めるまでに3つの交響曲など、いくつか作品を残している。1888年に作曲された交響曲「シェエラザード」は、華麗な管弦楽法(オーケストレーション)と「アラビアン・ナイト」に基づく異国情緒あふれる傑作で、大変人気が高い。

1884年の秋にヴァイオリン奏者のクラスノクツキーとの親交を得たことがきっかけとなって、彼を独奏者に想定した作品群が生まれる。「シェエラザード」や序曲「ロシアの復活祭」と共にそれに含まれるのが「スペイン奇想曲」。はじめは「ヴァイオリンのための幻想曲」として書きはじめられたが、やがて構想が膨らみ、オーケストラの中でヴァイオリン奏者が活躍する巨大な作品に仕上がった。スペインの民謡や舞曲の旋律が採り入れられ、色彩豊かな音楽。「管弦楽法の父」、リムスキー=コルサコフの面目躍如である。

ほぼ続けて演奏されるが、5つの部分に分けられる。

  1. アルボラータ(朝の歌):アルボラータは、朝の祝い事における音楽をさす。
  2. ヴァリアツィオーニ(変奏曲)
  3. アルボラータ(朝の歌)
  4. シェーナとジプシーの歌:(シェーナは「劇歌」と訳される。そのままだが、劇的な独唱。)
  5. アストゥリアのファンダンゴ:(ファンダンゴは、アンダルシアの舞曲。フラメンコのひとつ。)

ブラームス 交響曲第3番 へ長調 作品90

ブラームスの名を聞いて、どのようなことを思い浮かべるだろうか。秋、孤独・・・。ロマン派の最後期に位置していた彼は、すでに革新的手法を用いて音楽を表現していた先人たちとはむしろ逆行する形で作品を生み出していった。「進歩主義」という考え方が支配的だった19世紀後半、ブラームスの作品技法は「反動的」であると激しく非難されたのである。1883年12月の「交響曲第3番」の初演を聴いたフーゴー・ヴォルフの新聞評での言葉を借りれば、この作品は「胸がむかつくほどの陳腐…冗漫…根本的に虚偽…ひねくれている」。感情的とも思える中傷の裏には、当時ヨーロッパの楽譜をほぼ二分化した構想が背景にあった。その相手とは良きにつけ、悪しきにつけ、楽界を大胆に変革させたリヒャルト・ワーグナーである。二人が直接誹謗し合う事は無く、むしろお互いに相手の優れた点を認め、創作の糧にしていたのである。しかし、ワーグナーは他人を攻撃することで自分の地位を確認するような性格の持ち主だったため、作風から何からまるで正反対だったブラームスは、ワーグナー賛美者たちの格好の攻撃の的となったのだ。

この仁義無き抗争も1883年2月13日、ワーグナーがヴェネツィアにて没したのを期に収束に向かうかに見えた。自ら望んだ訳では無いのに、ブラームスはワーグナー無き後、独墺圏の作曲家のなかで唯一巨匠と呼ぶべき存在になっていたのだった。ワーグナー派の連中は性懲りも無く、首領亡き後の新たなる対抗馬としてワーグナーの音楽の熱烈な崇拝者だったアントン・ブルックナー(彼はワーグナーをほとんど紙と見做していたらしい)を担ぎ出したが、それまで交響曲を8つも書いていたにもかかわらず、そのほとんどが「大蛇のように長大、技術的に演奏不可能」とされ、ほとんど上演の機会を持たなかったのだから、ブラームスと対等に渡り合えるはずもなかった。

「交響曲3番」には作曲当時(1883年)交際していたうら若い歌手、ヘルミーネ・シュピースとの淡い恋が反映されているとされる。ブラームスの合唱作品「運命の女神の歌」(1882年)の上演が彼女との知遇を得るきっかけとなったのだが、ブラームスは50歳、対するシュピースは26歳。親子ほどの年齢差のある2人だったブラームスは彼女に熱を上げ、ライン川の町・ヴィースバーデンに滞在する彼女のもとに積極的に訪問し、ウィーンの楽界に彼女を紹介したり、歌曲を書いて献呈したりした。シュピースはその後1893年2月に36歳の若さで亡くなり、晩年のブラームスに深い悲しみをもたらすことになる。

4楽章形式を採るが、いずれの楽章も最後は静かに終わり、複数の主題の提示→展開→主題同士の拮抗を経て解決、明快な勝利の終結・・・というベートーヴェン以来の交響曲の図式は崩されている。ゆえに初演を受け持った指揮者、ハンス・リヒターの「この作品はブラームスの『英雄交響曲』だ(ベートーヴェンの3つの交響曲が『英雄』と命名されていたことになぞらえたものと思われる)」との指摘はむしろ的外れともいえるが、作品の内面的主張は前2作品と比べ格段に深まっている。第4楽章の終わりは、年齢を越えた恋に対する諦念よりも、むしろ「これで良いのだ」というような前向きな幸福感が感じられる。ロマンは最後期の交響曲のなかでも、2年後に書かれる「第4楽章ホ短調」と並んで傑出した作品の一つに数えられよう。

解説:藤本 崇
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