DIE KOKUBUNJI PHILHARMONIKER
 ■ 国分寺フィル演奏会演奏会記録(1996年〜2000年)第20回定期演奏会

エルガー 行進曲「威風堂々」第1番二長調

日本では多くの作品が好んで聴かれているとは言えない状況だが、イギリスでは没後60年以上を経たこんにちでも絶大な人気を誇る英雄的存在、それがエルガーである。

彼は遅咲きの作曲家だった。楽器商を営む傍ら、音楽教師としても活躍していた父の影響を受けて独学で音楽を学び、ロンドンでヴァイオリンの修業を行う。しかし夢叶わぬまま故郷ウスターに戻り結婚。作曲を続けたもののサロン風の小品ばかりで、世間に受け容れられなかった。ところが1899年、ロンドンで発表した管弦楽のための「創作主題による変奏曲(「エニグマ変奏曲」)」が大人気を博し、スター街道に引っぱり出されたのだ。エルガー42歳の時である。
「威風堂々」は、1901年から1930年までの間に断続的に書かれた、5曲からなる軍隊行進曲である。イギリスの夏の風物詩ともなっている「プロムナード・コンサート」でエルガー自身の指揮で初演された際、ホールを埋め尽くした聴衆は興奮し、「場内を鎮めるために私は三度、同じ曲を演奏した(エルガーの自伝より)」という。

進歩主義思想を唱える人々は「盲目的愛国心を鼓舞する陳腐な曲」と斬って捨てた。「ドイツ=オーストリアのロマン派の亜流」と悪口を言う者も居た。確かにエルガーの音楽は懐古的、大時代的である。それは大英帝国の黄昏を映し出し、本来イングランドの人々が持ち合わせているジェントルさの喪失を嘆く。邪心無き母国への愛の発露が、エルガーの作品を貫く軸であるように思われる。

勇壮な行進曲の間に、優美な旋律を持つトリオ(中間部)が挿入されている。このトリオは時の国王エドワード7世(在位1901〜1910)が大心気に入り、「歌詞を付けて演奏すれば世界に広まるだろう」と伝えた。国王の言葉を受けてエルガーは曲にふさわしい歌詞を充てて編曲を施し、国王の戴冠式のために作曲していた祝典曲「戴冠式類歌」の終曲「希望と栄光の地」に使った。歌詞はアーサー・C.ベンソンの同タイトルの詩に依っている。現在ではオリジナルの「威風堂々・第1番」にその歌詞を挿入して演奏する場合もある。

ベートーヴェン 交響曲第7番イ長調

「第5交響曲(「運命」)」、「第6交響曲・田園」を生み出した「傑作の森」と呼ばれる1806年から1808年以降、ベートーヴェンは4年余りに渡って「交響曲」というジャンルから遠ざかってしまう。「第7交響曲」は前回(第19回定期演奏会で)採り上げた「第8交響曲」と同時期に作曲が進められた、いわば兄弟作品。当時、ベートーヴェンを取り巻く状況は明るいものでは無かった。ベートーヴェンの創作期間のなかでも最悪、スランプと言える状態だったのだ。

この曲は、ベートーヴェンの唯一の作曲上の弟子だったルドルフ大公の邸で1813年4月20日に非公開の初演が行われたあと、同年12月8日、ウィーン大学講堂においてベートーヴェン自身の指揮で公開初演された。これはハーナウ戦争の傷病兵のための慈善演奏会だったのだが、ベートーヴェンのイギリス演奏旅行の費用捻出の意味もあったらしい。ちょうどその頃、スペインで、ウェリントン将軍の率いるイギリス軍がナポレオン軍を撃破した。メトロノームの発明で有名な、技師にして興行師、ヨハン・ネーポムク・メルツェルは、自ら開発した自動演奏装置「パンハルモニコン」を使ってウェリントン将軍を讃える曲を書くようベートーヴェンに提案する。それが「第7交響曲」と同時に初演された「ウェリントンの勝利」である。ナポレオン軍によって首都を占領された(1809年5月〜11月)という苦い思い出を持つウィーンっ子に受けるし、イギリスに持っていくには絶好の作品になるとメルツェルは考えたのだ。まったく、商才があるというか、抜け目が無いというか…。

実際、「ウェリントンの勝利」はバカ受けした。しかし、「第7交響曲」での反応はそれをさらに上回っていた。悲槍感溢れる第2楽章はアンコールされたほどである。

全曲を通して「律動主題」が現れるため、リストが「リズムの神化」と呼び、ワーグナーは特に第2楽章を「舞踏の聖化」と呼んで高く評価した。彼らの言葉だけで作品を想像すれば、さぞや優雅な曲、と思われる向きもあろう。しかし、「交響曲」は、作曲家の思想や個人的告白を織り込んだものである。「第7」では「第3交響曲・英雄」や「第5」以上にベートーヴェンの意思が徹底的に盛り込まれていると言っていい。ナポレオンヘの怒りと、さまざまな苦労を経験しつつも離れ難い、楽都ウィーンヘの思いは破壊的なまでの推進力、律動性を呼び起こし、音楽が進むうちにそれは何倍にも膨らんでいく。ベートーヴェンはオーストリア人ではなかったが、この作品がウィーンの人々の愛国心を高めたのは当然のことと言えるだろう。

ちなみに、ベートーヴェンのイギリス旅行は結局実現していない。慈善演奏会という性格上、充分な資金が集められなかったようで、最終的に演奏者へのギャラと作曲家の生活費に消えたのであった。

佐藤眞 混声合唱とオーケストラのためのカンタータ「土の歌」

第2次世界大戦での敗北の後、日本は驚異的なスピードで復興を遂げた。1960年代の高度経済成長の下、多くの人々が大量消費に我を忘れる一方で、発展する経済の影で公害問題が次第に深刻になっていった時期でもある。

「土の歌」は、そんな頃に書かれた。1962(昭和37)年、日本ビクター(現ビクターエンタテインメント)からの委嘱で、当時ビクターの専属詩人だった大木惇夫が作詞を担当。テーマを「土」としたのは、この年の宮中の歌会始めのお題に依ったものである。
その10年ほど前から全国のアマチュア合唱団がこぞって歌ったショスタコーヴィチのオラトリオ「森の歌」からの影響は否めないが、大木の詩のメッセージ性を汲んで緩急織りまぜながら、佐藤は人々に広く親しまれる旋律を書いた。「土の歌」は大変な人気を博し、終曲の「大地讃頌」は単独でも頻繁に採り上げられ、現在も中学・高校のコーラス部の必須のレパートリーとなっている。

もともとは3管編成の大オーケストラによる伴奏版で、欧米での「武者修行帰り」の小澤征爾とNHK交響楽団東京混声合唱団が録音する予定だったのだが、小澤とN響がある演奏会のリハーサル時に衝突・訣別した、いわゆる「N響事件」によりご破算となってしまった。その後岩城宏之がかわりにN響を振って録音を行っている(ビクター:廃盤、未CD化)。

佐藤はピアノ伴奏による版を作って出版、数回の改訂を経た後、1986年に2管編成のオーケストラ版を新たに書き直した。現在演奏されているのは、この1986年の改訂版である。また、前述の岩城はオケを東京交響楽団に替えて改訂版でも録音をしており、CDで出ている(ビクターエンタテインメント:VICG-40188)。

大木の詩は、作詞から38年を経た今でも新鮮さを失っていない。いや、そればかりか、ことばの一語一語が、現代に生きる私たちに重くのしかかって来る。
21世紀を目前にした今、先人への敬意と共に、改めて人類が犯してきた多くの「罪」を考え直してみるべきかもしれない。

第1楽章:農夫と土
「いのち」を育む土。そこへ新たな命を預ける農夫らの期待。
第2楽章:祖国の土
大地と共に生きる歓び。
第3楽章:死の灰
戦争の悲惨さを訴える。犠牲となった市民を悼むレクイエム。
第4楽章:もぐらもち
臆病なもぐらをからかっているが、それは私たち人間の姿でもある。
第5楽章:天地の怒り
天変地異に抗えぬ人間の無力さ。オーケストラの圧倒的大音量によって人々の叫び、苦しみ、願いはすべて押し潰されてしまう。
第6楽章:地上の祈り
女声合唱がア・カペラ(無伴奏)でうたい始める。未来への決意が静かに宣言され、金管群による崇高なファンファーレが奏される。途中で挿入される男声のみのグレゴリオ聖歌ふうの祈りも印象的だ。
第7楽章:大地讃頌
「母なる大地」への大いなる讃歌。いかに科学が発達しようとも、生きとし生けるものすべては、土から離れては生きる事は出来まい。これからも…。
解説:藤本 崇
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