DIE KOKUBUNJI PHILHARMONIKER
 ■ 国分寺フィル演奏会定期演奏会(1996年〜2000年)第21回定期演奏会

R.シュトラウス:交響詩《ドン・ファン》作品20

19世紀末のドイツ・ロマン派最後の旗手として勇名を馳せたりヒャルト・シュトラウス。オ一ケストレ一ション(管弦楽法)を駆使したそのサウンドは、しかし、従来のロマン派のそれとは一線を画している。リストやワーグナーといった大芸術家の作品が「新ドイツ楽派」と呼ばれ、後塵を拝した作曲家の多くが影響を受けまくっていた時代にあって、シュトラウスは独白の語法を守り通したのでる。これは、ミュンヘン音楽院で教授を務め、宮廷楽団の第1ホルン奏者であった父、フランツ・シュトラウスが「新ドイツ楽派」に激しい反感と嫌悪を持っていた事も一因と思われるが、時の大指揮者ハンス・フォン・ビューローの紹介でマイニンゲンの宮廷オーケストラの副指揮者に就任して以降、ワーグナーなどの作品に大いに興味を示すようになる。また、指揮者として集中的にオーケストラと直接仕事をしたという経験は作曲上おおいに役立った。

「ドン・ファン」は1888年春頃に着想されたとされ、スコアが完成したのは1889年秋である。その間、ビューローに送った手紙からは「ドン・ファン」の形式や構成などについて試行錯誤している旨が述べられていて、シュトラウスが相当苦心して作曲に取り組んでいたことがうかがえる。ピアノによる数回の試演のあと、ヴァイマールの宮廷劇場オーケストラ、シュトラウス自身の指揮により1889年11月11日に初演がおこなわれた。練習の段階で、オーケストラ側から「難しすぎる」いうクレ一ムが付いたが、最終的にはシュトラウスが大いに満足する出来映えを示した。初演が、聴衆から大喝采を浴びたことは言うまでもない。

さて「ドン・ファン」は、その実在性は疑われているが、14世紀頃のスペインに居たとされる好色な貴族だとされている。その伝説的人物を題材に、17世紀前半、スペインの聖職者にして劇作家だったデ・モリーナの宗教劇「セビリアの色事師と石の招客」が評判を取ったのをきっかけに、イタリア語、フランス語に翻訳されて広まり「ドンファン」ブームが巻き起こったのである。「ドン・ジョヴァンニ」としてモーツァルトのオペラとしても有名であるし、その他モリエールの戯曲、バイロンの詩、E.T.A.ホフマンの小説…と、時の芸術家たちの創作意欲を刺激した。

シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」は、ニコラウス・レーナウの断片的な詩に基づいている(数度の改訂が施されてはいるが、レ一ナウが遺した最後の詩でもある)。レーナウのドン・ファンは、好色漢というよりは、自己の理想の女性を求めてさすらう孤独な男、という印象を受ける。最後は理想の女性を得られぬまま寂しく世を去る形になるが、シュトラウスはレ一ナウの詩に沿い、楓爽とした楽想によって独自のドン・ファン像を描く。

モーツァルト:ピアノ協奏曲ハ短調 K.491

ピアノ協奏曲は、モーツァルトの36年という短い生涯の間で、もっとも長い期間に渡り作曲者と連れ添ったジャンルである。モーツァルトが音楽史上稀にみる「神童」であったことは、普段あまりクラシック音楽に接ずる機会のない方でも音楽の授業などを通してご存知だろうと思う。3歳で作曲らしき事を始め、わずか5歳でリサイタルを催した事にも驚かされるが、4歳のときのエピソードには驚嘆を通り越して唖然とさせられる。ある日、モーツァルト家を訪れていたヨハン・シャハトナー(彼はそのとき19歳であった)の証言によれば、五線譜に何か書き付けているモ一ツァルトを見つけ、「何を書いているの?」と尋ねたところ、彼の答えは「クラヴィーア(Klavier:鍵盤楽器、ここでは今でいうピアノを指す)のためのコンツェルト(Konzert:協奏曲)!」

結局、初期の習作から最後の年、1791年に書かれた「変口長調K.595」までを含めると、モーツァルトが遺したピアノ協奉曲は30曲余にものぼる。

モーツァルトの時代のピアノは現代において普及しているものとはかなり異なっている。チェンバロはベートーヴェンの師であったネーフェなど名手が存在していたものの、楽器としては衰退の一途にあった。同じ鍵盤楽器ながら、チェンバロとピアノの大きな相違点は音の出し方である。チェンバロは、楽器の中に張ってある金属の弦を鍵盤を叩くことにより弾く(撥弦=はつげん)のに対し、ピアノは鍵盤と連動したハンマーが弦を下から叩く事によりチェンバロよりも柔らかい音色を得ることが出来た。これは現代のピアノと同じ仕組みではあるが、当時のピアノは形が小さく、現代ピアノのようなペダルも無い。さらに音の減衰が大変早かった。モーツァルトの書いたピアノ作品は、当時の楽器の特性を活かして書かれているため、譜面づらは易しいが、演奏は大変難しいとされている。

さて、この作品は1786年4月に開催された予約演奏会のために書かれたと思われる。「思われる」と書いたのは、音楽学者ドイッチュが、同年4月8日付けの新聞記事により、この前日に催されたブルク劇場での演奏会で上演された「ピアノ協奏曲」というのがこの作品だとしているためである。モーツァルトが自ら書いた「作品目録」によれば、3月27日に書き上げられた、という事になっており、大抵の作品は完成後すぐに演奏会にかけられているからドイッチュの主張はほぼ正しい。だが、公式の演奏記録がモーツァルトの場合ほとんど残されておらず、晩年の作品では初演の時期すら特定できない曲が多い。

それはさておき、この作品の持つ独特な抒情はどうであろう。1785年の「二短調1く1466」と共に唯ふたつ(という言い方もおかしいが)、短調で書かれたピアノ協奏曲である。序奏から厳かな雰囲気に満ち、悲愴感を漂わせたまま疾駆する音楽は、晩年のシンフォニーに相通ずるものがある。予約演奏会という、ごく限られた人々(多くは貴族たちや一部の金持ち)のために作曲されたとはいえ、ここでのモーツァルトは「芸術家としての自己主張」をはっきりと打ち出しているように思われる。

父・レオポルドに宛てた手紙に、「協奏曲」について「難しずぎず、易しずぎず、…華やかで、心地よく、自然で、空虚に陥ること無く」としている。その「定義」は守られてはいるが、あくまで表面的なもの。「自己主張」は、カネにモノ言わせて威張り散らしている貴族や金持ちたちに対するささやかな抵抗と見れなくもない。

ドヴォルザーク:交響曲第6番二長調作品60

連作交響曲詩「我が祖国」に代表されるスメタナに次ぐ「チェコ国民楽派」の作曲家として、チェコ全国民の期待を一身に負っていたドヴォルザークは、その生涯にオペラを含む多くのジャンルに作品を遺した。とりわけ有名なのは9曲が遺された交響曲のうち、最後の3曲である。第9番「新世界より」は、俗に「家路」と呼ばれる哀愁を帯びた施律が広く知られているし、第8番はチェコの自然を想起させる自由闊達な精神に溢れている。また、第7番はブラームスの影響を受けているとも指摘されている厚みのあるサウンドで、学生・市民オーケストラが頻繁に採り上げるレパートリーとなっている。

さてしかし、本日演奏するのは「第6番」である。後期の3つの交響曲に比べれぱ演奏される機会は格段に少ない。レコ一ド、CDは何をか言わんや、である。勿論、今日はじめてお聴きになる方も多いだろう。

曲想としては、後期の「第8番」に近いが、それよりさらに朴訥とした語り口だ。ベートーヴェン以来、作曲家の個人的独白たる交響曲にしては押し付けがましさがあまり無い、といったところか。
ただし、個性が薄弱という事ではない。ドヴォルザークの交響曲は、3楽章形式の「第3番」を除き、すべて古典的な4楽章形式で書かれている。第2楽章が緩徐楽章、第3楽章はスケルツォ…という書式を頑固なまでに貫いた。「保守のなかの保守」的作曲家と思われがちだが、基本的には故国チェコ、ボヘミアの世俗的な旋律を織り込み、民族色と色彩感に溢れるものばかりである。また、外部のものをも吸収し、自己の中で消化ずる能力も備えていた。
ブラームスはそんなドヴォルザークの才能を高く評価していて、ある時「あいつのゴミ箱から書き損じの楽譜を拾い集めれば、交響曲が1曲書けるぞ」と語っていたそうな。皮肉のように聞こえるが、あまり社交的ではなかったブラームス流の賛辞である。

話がそれてしまった。「第6番」に戻ろう。

ドヴォルザークがこの作品を書くきっかけとなったのは、先に「ドン・ファン」の稿で紹介したビューローと同時代の大指揮者、ハンス・リヒターが、1879年にウィーン・フィルを指揮して「スラヴ狂詩曲第3番」を演奏したことによる。この当時、ドヴォルザークの交響曲は既に5曲を数えていたが、まだ1作もスコアが出版されていなかった。そのためか、リヒターはドヴォルザークの希有な才能を見抜きながら彼が交響曲を書いている事を知らなかったのだろう、熱心に交響曲を書くように薦めたのである。

「交響曲第6番」は翌1880年夏からスケッチが開始され、秋には早くも完成を見た。ところが、その年の暮れに予定されていた初演はお流れとなってしまったのだ。理由はオーケストラ(ウィーン・フィル)の反対(音楽的な理由かどうかはわからない)、そしてリヒター自身のスケジュールの都合が付かない、ということであった。
最終的に初演は故国チェコでおこなわれる事になり、1881年3月25日、アドルフ・チェフ指揮のプラハ国民劇場のオーケストラにより演奏された。会場を埋めた聴衆は熱狂し、第3楽章をアンコールに演奏したという。

その人気を受け、この作品はドヴォルザークの交響曲のなかで最初にスコアの出版がおこなわれたのである。ただし、6番目の交響曲にもかかわらず、出版の際は「第1番」とされ、その後続いて出版された他の交響曲とともに混乱をきたした。第2次大戦後も永らく「第9番・新世界より」が「第5番」、「第8番」が「第4番」…などと呼ばれていたのは、年輩の方ならご存知だろう。

ちなみにこの曲は、創作の端緒を開いたハンス・リヒターに捧げられている。リヒターはプラハでの初演に遅れること2ヵ月、ようやくロンドンでこの作品を指揮し、溜飲を下げた(と思われる)。

第1楽章:アレグロ・ノン・タント
提示した幾つかのテーマを楽器を違えて拮抗しつつ変奏を重ねていくという、典型的ソナタ形式。それぞれのテーマはシンプルだが強い推進力を保ち、力強い終結へと向かう。
第2楽章:アダージョ
牧歌的雰囲気溢れる楽章。
第3楽章:スケルツォ。フリアント;プレスト
プレスト ボヘミアの急速なテンポの舞曲「フリアント」を模したスケルツォ楽章。恣意的に拍をずらしたティンパニの強打が更に劇的効果を生んでいる。中間部には木管が主体となった、のどかな施律のトリオが付く。
第4楽章:フィナーレ。アレグロ・コン・スピリート
第1楽章と同じくソナタ形式を採り、音楽の進め方は慣例に則っているが確信に満ちている。はじめに提示したテーマを変奏するかたちでクライマックスを迎える。
解説:藤本 崇
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