DIE KOKUBUNJI PHILHARMONIKER
 ■ 国分寺フィル演奏会定期演奏会(2001年〜2005年)第31回定期演奏会

ベルリオーズ:序曲「ローマの謝肉祭」作品9

ピエール・ブーレーズをして「近代管弦楽法はベルリオーズから始まる」と言わしめた19世紀前半のフランス楽壇の異端児は、しかし生前はその型破りな書法があまねく理解されていたとは言い難い。極めて個人的な内容の「幻想交響曲」(1830年)以降、次々と大作を発表するもオーケストラの楽員や聴衆の反応はまちまちだった。

ヴィオラ独奏とオーケストラのための「イタリアのハロルド」(1834年)を委嘱したパガニーニは、作品に独奏部分での派手な活躍を期待していたのに、存外地味な出来映えに失望したと伝えられているが、1838年にベルリオーズが催した自作演奏会で「幻想交響曲」「イタリアのハロルド」などを聴いて感銘を受け、後にベルリオーズへ2万フランという大金を贈与している。
当時のカリカチュア(戯画)で揶揄されていることからも容易に想像できるが、ベルリオーズの「複雑怪奇」な管弦楽法を、演奏者(ここではオーケストラ)がきちんと消化しておらず、かつ聴衆が外面的効果ばかりに目を(耳を)奪われたことにより生じた「誤解」が多々あったと認識すべきであろう。

さて、この「ローマの謝肉祭」はこんにち単独で採り上げられる事が多く、純粋なコンサート用序曲と思われがちだが、もともとはオペラのための前奏曲として書かれた。だがそのオペラは(少々ややこしいが)「ローマの謝肉祭」が書かれる前に一度上演され、大失敗している。その作品の名は「ベンヴェヌート・チェルリーニ」(1838年)。上演にふつうでも3,4時間はかかるフランスの伝統的グランド・オペラに対抗した、ベルリオーズの野心作であった。

余程思い入れが強かったのであろう、ベルリオーズは1843年になって、このオペラをよみがえらせようと思い立ち、オペラのなかで用いたサルタレロ(イタリアの民俗的舞曲)と主人公がうたう愛の二重唱をもとにして第2幕への前奏曲を書き上げた。
だが、結局オペラの再演がかなわぬまま、この前奏曲はコンサート用の序曲「ローマの謝肉祭」として1844年、ベルリオーズの自作演奏会で披露されたのである。

短いながらも印象的な導入のあと木管による牧歌的旋律に他の楽器が徐々に重なり、音の綾を成して行く。光と影が交錯するかの如くであるが、総じてラテン的な明るい響き。後半は、ベルリオーズの天才的書法が冴えまくり、オーケストラの華々しい活躍を存分に味わえる。

J.S.バッハ:シャコンヌ(管弦楽編曲:寺島康朗)

音楽史に「大バッハ」としてその名をとどろかせる楽聖、ヨハン・セバスティアン。父や兄も音楽家で、また彼の息子たちもそれぞれ個性を持った音楽家として名を残している。

シャコンヌ(Chaconne)は、バロック音楽の時代にフランスで華開いた舞曲のスタイルで、4小節または8小節から成るゆるやかなテンポの3拍子のテーマ(主題)をもとにした一定の和声進行で展開していく変奏曲。イタリア語ではチャッコーナ(Ciaccona)。形式的には低音の反復で荘重な雰囲気を醸し出すパッサカリア(Passacaglia)とよく似ている。

バッハは、この当時の「流行のスタイル」であったシャコンヌを、無伴奏ヴァイオリンのための作品に用いた。それが現代に伝わる「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ(第2番)ニ短調」BWV1004である。この作品の終曲に置かれた「シャコンヌ」は、全曲約25-27分の演奏時間に対し、約半分にも及ぶ長大な楽章となっている。親しい友人の追悼のために書いたのだとか諸説あるが、バッハの名をこんにちまで知らしめているのは、このシャコンヌがあるからだと言っても過言ではない。

ブラームスは楽曲の構成などバッハに深く傾倒していた。なかでもこの「シャコンヌ」については「最もすばらしく、偉大な音楽」とまで述べており、このあと演奏する「交響曲第4番」の終楽章でシャコンヌのスタイルを用いている。また、優れたピアニストでもあった作曲家フェルッチョ・ブゾーニによる有名なピアノ独奏用編曲をはじめ、多くの音楽家がこの「シャコンヌ」のさまざまな形態での演奏を試みている。ストコフスキーなどのオーケストラ編曲版も存在する。

今回の演奏会の指揮者・寺島氏が自ら手掛けたという編曲は、本稿執筆時には残念ながらどういうものなのか聴くてだてが無かったが、前述のとおり「シャコンヌ」のスタイルを用いたブラームスの「4番」の前にお聴きいただければ、双方の作品への理解が深まるであろう。

ブラームス:交響曲第4番ホ短調 作品98

1883年2月13日、音楽界の巨人ワーグナーがヴェネツィアで死去した。彼の対抗勢力とのみなされていたブラームスはその知らせを受けた時、合唱団の練習をおこなっていたが、「巨匠が死んだ。今日は何も歌うものはない」とつぶやき、練習を打ち切った。排他的で尊大なワーグナーの人間性はさておき、ブラームスは彼の芸術性には敬意を持ち続けていたから、とも言われている。

ワーグナー亡きあとのドイツ楽壇で特別な存在となったブラームスは、ワーグナー派の評論家たちの攻撃に遭いながらも創作活動を続ける。この年、1883年に自作の「運命の女神の歌」の演奏会に出演した若く才能あるアルト歌手、ヘルミーネ・シュピースの声と性格に魅了されたブラームスは、彼女をウィーンで紹介しただけでなく、歌曲を書いて献呈したりもした。
この時期に書かれた「交響曲第3番」は、4つの楽章すべてが静かに終わるという、従来の交響曲のスタイルを打ち破っているだけでなく、前2つの交響曲をはじめ、それまでのブラームスのオーケストラ作品には見られなかった甘美な叙情が感じられる。それには当然、親子ほどの歳の離れたシュピースとの恋が反映されていると見るべきであろう。
これまた当然の如く、ワーグナー派からは手酷い攻撃を受け、のちに作曲家として知られるフーゴー・ヴォルフは「胸がむかつくほど陳腐、冗漫、…虚偽、ひねくれている」とコテンパンにコキおろした。

1884年から翌年にかけて夏場に滞在したオーストリアのシュタイアーマルク地方、ミュルツツーシュラークで書き進められ完成した「交響曲第4番」は、バッハの項で述べたように終楽章でシャコンヌの形式を用いるなど、またまたワーグナー派の餌食となるべき要素をそなえていた。
当時の社会は常に新しい考え方や表現を求めていて、それらは進歩主義を唱える知識人の間でおおいに支持されていた。バッハを敬愛し、かつバッハのスタイルを用いているブラームスに対し、ワーグナー派をはじめとする連中は過去に逆行する行為、「反動的」だと決め付けたのだ。

以下は、前述のヴォルフがウィーン初演の折に書いた「交響曲第4番」の新聞評である。

…ブラームスの創作活動が退歩していることは驚きである。彼はこれまでにも決して並みの水準を超えて飛躍することが出来なかったが、それにしても、あの無内容さ、空虚さ、そして偽善ぶりがホ短調の交響曲を支配し、他のブラームス作品には見られなかったほどに恐ろしいかたちで白日のもとにさらされているのである。…(三宅幸夫「ブラームス」新潮文庫)

ここまで来ると、丁寧な言葉をつかってはいるが、誹謗中傷とかよりももっと下世話な野次のように聞こえる。ただ、「進歩主義」が席巻していた時代では、このように感じる人が多かった、というのもまた事実である。

「交響曲第4番」は1885年10月25日、ブラームス作品の最大の理解者であったハンス・フォン・ビューロー(一説にはブラームス自身)の指揮で、マイニンゲン宮廷劇場のオーケストラにより初演がおこなわれた。初演は好評をもって迎えられ、その後ライン地方やオランダなどで演奏された。が、翌1886年1月のウィーン初演では、ヴォルフをはじめとするワーグナー派の影響か、かんばしい評価は得られなかった。

20年あまりの苦闘のすえ産み出された「第1番」、牧歌的雰囲気が溢れる「第2番」、穏やかなロマンティシズムの「第3番」を経てブラームスが到達したこの「第4番」。教会旋法やシャコンヌのようなバロックの舞曲のスタイルを用いていながら、内声部を緻密な計算によって再構築し、新鮮な響きを生み出しているだけでなく、深い憂愁をたたえた表情がひどく人間味を感じさせる。それゆえこの交響曲は、作曲から120年経ったいまも人々を魅了し続けてやまない。

解説:藤本 崇
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