DIE KOKUBUNJI PHILHARMONIKER
 ■ 国分寺フィル演奏会定期演奏会(2006年〜)第35回定期演奏会

サン=サーンス:交響曲第3番ハ短調 作品78

カミーユ・サン=サーンス(1835-1921)は3歳で作曲を始め、10歳でベートーヴェンのピアノ協奏曲の演奏を披露しピアニストとしてデビュー。18歳で最初の交響曲を書いた天才であった。しかし、彼の作曲家としての人生は決して順風満帆とは言えない。当時フランスはグランド・オペラの最盛期であり、器楽曲や室内楽のジャンルで「ドイツ主義的な」作品を生み出していくサン=サーンスに対して、パリの聴衆の態度は冷ややかだった。

11871年、普仏戦争での敗北を機にサン=サーンスは当時の音楽仲間と共に「国民音楽協会」を設立、フランス音楽の新しい可能性を広げるべく、「革命家」としての活動を始める。サン=サーンスの評価は、その精力的な演奏活動により、オーストリア、イギリス、ドイツ、ベルギーなど国外より着実に高まっていく。
1885年ロンドン・フィルハーモニック協会は次シーズンのために新しい管弦楽曲の作曲をサン=サーンスに依頼する。彼のもう一つの代表作「動物の謝肉祭」と同時進行となるが、意欲的に仕事を進め翌年に完成する。

この作品はいくつかの特徴を持つ。第一に、通常の管弦楽の編成にオルガンを加え、ほぼ全体に渡り使用し重要な役割を果たしている点だ。サン=サーンスはリストをして「世界で一番偉大なオルガニスト」と言わしめたオルガンの名手であったが、しかしここでのオルガンパートは、協奏曲的な超絶技巧は誇示しない。むしろオルガンの音色の特長を効果的に利用しこの曲の持つ、崇高さ、壮大さを助長している。
第二の特徴としては通常の四楽章形式ではなく、二楽章から成り、各楽章はそれぞれ2つの部分に分かれる形式であることだ。初演のために書かれた作曲家自身の解説によると、「原理的に四楽章構成を保持する」上で「一楽章はアダージョへの序奏として、同様にスケルツォ楽章はフィナーレへ結びつく」とし、「際限のない再現部と繰り返しを避けること」を目的としたとされている。
第三の特徴は全曲を通じて同一の主題が形を変えながら縦横に使用され、構成上の統一が図られている点だ。これはベルリオーズの幻想交響曲の「固定観念」に始まり、リストにより開発された新しい音楽形式「交響詩」のライト・モチーフの手法を、発展させたと考えられる。ただし、ライト・モチーフは特定の物語の「人物」や「感情」を表しているのに対し、この曲では、あくまで絶対音楽として、主題が特定の意味を持たない点で新しい。同様の手法の代表作としてフランクの交響曲(1888)があるが、実はサン=サーンスが先んじている。
上記、第二、第三の手法は自作での前例がないわけではない(ピアノ協奏曲第4番(1875)、ヴァイオリン・ソナタ第1番(1885))。しかし、限られた主題を紡ぎ合わせる構成の緻密さは前作を上回り、とりわけ主題を連鎖させながら音楽を展開しドラマティックに高揚させていく点は、彼の作品で陥りがちな、客観的過ぎるある種の淡白さを克服し、その意味でこの手法の最も成功している例と言えるだろう。

ロンドンでの作曲家自身の指揮による初演は好評であった。サン=サーンスへ祝福の手紙を送ったリストはその1ヶ月後死去する。サン=サーンスはこの曲の出版にあたって「リストの思い出に」という献辞を記した。
新しい形式や和声を採り入れつつも、明晰な古典的音楽語法を用い、厳格に節度を守るサン=サーンスの独特の作風は生涯変わらず、革新家として世に出たサン=サーンスは、この後次第に「保守主義」として批判されるようになる。交響曲第3番は、彼の全作品中傑出していると共に彼の創造の集大成とも言える作品であった。「この作品において私は私の与えることのできたものをすべて提示した……だからこの作品のようなものを二度と書かないだろう」

第一楽章
(第1部)アダージョ〜アレグロ・モデラート
神秘的な短い序奏に続き、3小節で1フレーズを形成するさざ波のような第1主題が提示される(主題Aと呼ぶ)。第2主題は特徴ある和声進行の歌謡的なフレーズ。展開部はもっぱら主題Aの断片を組み合わせ進行していく。型どおりの再現の後、音楽は次第に勢いを落としていき第2部を予告する。
(第2部)ポコ・アダージョ
オルガンの和音の上で、弦楽器による祈りにも似た静逸な歌が歌われる。クラリネット、ホルン、トロンボーンの特徴的な楽器の組み合わせに引き継がれるが、再びオルガン、弦楽器が主導権を渡され管楽器の色は控えられる。
第二楽章
(第1部)アレグロ・モデラート〜プレスト
スケルツォ楽章に相当する。弦楽器の情熱的な動機に続き、木管楽器により主題Aが断片化されユーモラスに現れる。中間部プレストはピアノ、シンバル、トライアングルが加わり極めて色彩的である。後半、前出の中間部テーマと共に新たなテーマ(主題Bと呼ぶ)が低音楽器により密やかに歌われる。この主題は、弦楽器の神秘的なフガートへ展開し第2部につながる。
(第2部)マエストーソ〜アレグロ
オルガンによるフォルテのハ長調の和音の後、主題Bによるファンファーレが管弦楽で鳴らされる。4手のピアノの煌びやかなアルペジオに彩られ、主題Aが幻想的なコラール風に現れる。テンポを上げて主題Aがリズムを変えた力強いフガートが開始されるがフレーズは原型どおりのため3小節毎に答唱が続く形となる。オルガンによる第2主題(主題C、これも3小節フレーズ)の後、三度転調を3小節毎に行き来する和声上で管楽器群で伸びやかな歌が歌われる。コーダは、拡大、縮小された主題Aのパッセージが、重なり、繰り返しながら加速し、3小節のフレーズが遂には大きな3拍子となる。突如Pesante(重々しく)で主題Cが全奏により打ち鳴らされた後、もう一度勢いを取り戻し、ティンパニの印象的な連打をもって全曲は華々しく閉じられる。

佐藤 眞:混声合唱とオーケストラのためのカンタータ「土の歌」

昭和30年代。職場や大学サークルでは、労働歌、反戦歌などの合唱による社会的活動「うたごえ運動」がピークとなり、歌謡界のステージでは、ダーク・ダックス、デューク・エイセスに代表されるコーラス・グループが活躍、また子供らの間では、昭和36年放送開始のNHK「みんなのうた」に端を発して児童合唱の旋風が巻き起こる。日本はまさに「合唱ブーム」が到来していた。

そのような気運の中、佐藤眞は日本ビクターから、合唱曲の委嘱を受ける。1962年、佐藤が東京芸術大学専攻科(現在の大学院音楽研究科)在学の頃であった。佐藤は前年、ニッポン放送からの依頼により混声合唱とピアノの作品「蔵王」を世に出していた。「蔵王」は技術、内容共に、広く一般に歌われるように考慮され書かれた作品であり、文部省(現文部科学省)主催芸術祭合唱部門参加作品にもなっていた。この「蔵王」の路線を推し進め、よりスケールアップした様式の合唱曲を、というのが依頼者の要望であった。

こうして、混声合唱とオーケストラによる、カンタータ「土の歌」が誕生する。それは依頼者の期待、当時の世相に応えて余りある作品となった。
岩城宏之指揮、東京混声合唱団、NHK交響楽団により初演後、佐藤は少しずつピアノ伴奏版に編曲し、「合唱界」という雑誌の付録という形で段階的に発表をしていく。その際、いくつかの曲においては移調を行い合唱パートの音域を下げており、アマチュア・コーラスへの配慮が窺える。

作詞を担当したのは、当時の日本ビクター専属詩人であった大木惇夫(1895-1977)である。大木は、「土」は神が創造したもの、人類はその「土」より出で、帰っていくものとして、「土」を尊び、讃える、というメッセージを込める。クリスチャンであった大木のキリスト教的な神への信仰と共に、汎神論的な自然の摂理への畏敬も感じさせる。そして詩にはもう一つ重要なテーマとして「反戦」、「平和」の悲願が織り込まれている。大木は広島生まれであった。

憲法第9条の解釈、核兵器保有の是非について物議を醸す現代において、「土の歌」の詩の受け止められ方は必ずしも一様ではないかもしれない。しかし、こうして鳴り響く音楽は、客観的な過去の遺物ではなく、今ここにあるリアルな熱い思いとして、時代や思想を超え直接我々の胸へ届き、揺さぶる。

解説:澤川 有平
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